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Macchi こんにちは、Macchi(マッチ)です。日本の田舎暮らしや、そこでの生活・考え方について書いています。

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住まい、暮らし、そして生き方について。SP Life の記事です。

記事はすべて、書き手が自分の言葉で書いています。うまい文章ではないかもしれませんが、そのぶん、その日その場所で見たこと・感じたことがそのまま残っています。英語版は翻訳の補助にAIを使っていますが、内容はいっさい変えていません。

古典文学への誘い

2020/07/03SP Life

枕草子が書かれたのは1000年も前のことですが、今でもその内容に頷けるところが幾つも見つかります。言葉が難しいので、すぐに意味が分からないという理由から敬遠しがちな分野でもありますが、学校教育でもっとわかりやすく楽しく、興味の湧くような題材を選べばいいのにと思います。

枕草子は最高の古典文学作品である

枕草子 第155段 うつくしきもの(より抜粋) 二つばかりなるちごの、いそぎて這い来る道に、いと小さき塵などのありけるを、目ざとに見つけて、いとおかしげなる指にとらえて、大人などに見せたる、いとうつくし。(超訳)二歳くらいの赤ちゃんが、夢中でハイハイをして近づいてくる途中に、小さなごみを見つけて、大人たちにみせる様子なんかは、超かわいらしい。

今も昔も赤ちゃんのかわいらしさは変わらないっていうことですね。

枕草子 第15段 にくきもの にくきもの いそぐ事あるをりに、長事(ながごと)するまらうど。あなづらはしきほどの人ならば、「後に」など言ひても追いやりつべけれども、さすがに心はづかしき人、いとにくし。 (超訳)にくたらしいのは、急用の時にやってきてだらだらと長話をするやつ。それがどうでもいいようなあいてなら「またあとでね。」なんて軽くあしらえるけど、仲のいいひとだとなかなかそうはいえないから、嫌になっちゃう。

急ぐ時に限って、客が来たり、電話がかかってきたりすることってありますよね。

枕草子 第50段 虫は(より抜粋) 蠅こそにくき物のうちに入れつべけれ。愛敬なくにくき物は、人々しく書き出づべき物のさまにはあらねど、よろづの物にゐ、顔などに濡れたる足してゐたるなどよ。(超訳)蠅も超キモい虫に、当然入るよね。こんなもののためにコメントするのも価値がないくらいのやつだけど、いろんなところにとまったり、濡れたような足で顔にとまっているのを見るとキモ過ぎるよね。

今は、ハエが食事中にぶんぶん飛んでいる事は見なくなりましたが、50年位まえは、食べ物にサッとたかっていました。食事の最中にお父さんが殺虫剤を「シュー」なんて吹きかけることもありました。今考えると怖いことですね。くだものに農薬がついているからって、ブドウも食器洗いの洗剤で洗っていたことも思い出しました。これも恐ろしいです。

宇治拾遺物語もおもしろい

宇治拾遺物語は、鎌倉時代初期の説話集で、今昔物語と同じジャンルで似たような話も載っていると記憶しています。なかでも有名なのが、「稚児の空寝」で落語のネタかなんかにもなっているんじゃなかったかな?

宇治拾遺物語 第1巻 12 児の搔餅するに空寝したること これも今は昔、比叡の山に児ありけり。僧たち宵のつれづれに、「いざ、搔餅せん」といひけるを、この児心寄せに聞きけり。さりとて、し出さんを待ちて、寝ざらんもわろかりなんと思ひて、片方に寄りて、寝たる由にて、出で来るを待ちけるに、すでにし出したるさまにて、ひしめき合いたり。(以下省略)(超訳)今となっては昔の話だけど、比叡山に子どもがいました。坊さんたちが暇なので、「ぼた餅でも作るか。」と言っているのを聞いて、できるまで寝たふりしようと思ったがなかなか呼んでくれない。坊さんたちはワイワイと騒いでいる。

この後、できたことを伝えてくれるが、一度で返事をしていくのはバツが悪いから、もう一度呼ばれたら、起きていこうと思っていたところ、この子供は寝ているからわざわざ起こさないほうがいいよと坊さんたちが言っていたので、みんなが食べている音を聞いて我慢できなくなって、間の抜けたときに「はーい」と返事をしたので、大笑いされたという話。このほかにも、もっと面白いのがあって、たぶん内容のせいで、教科書には載せられないんです。それを、ぜひ楽しんでもらいたいので紹介します。

宇治拾遺物語第1巻 6 中納言師時法師の玉茎検知の事これも今は昔、中納言師時といふ人おはしけり。その御に、殊の外に色黒き墨染の衣の短きに、不動袈裟といふ袈裟掛けて、木れん子の念珠の大きなる繰りさげたる聖法師入り来て立てり。中納言、「あれは何する僧ぞ」と尋ねらるるに、殊の外に声をあはれげになして、「仮の世にはかなく候を忍び難くて、無始よりこのかた生死に流転するは、詮ずる所煩悩に控えられて、今にかくて浮世を出でやらぬにこそ。これを無益なりと思ひとりて、煩悩を切り捨てて、ひとへにこの度生死の境を出でなんと思ひ取りたる聖人に候」といふ。中納言、「さて煩悩を切り捨つとはいかに」と問ひ給へば、「くは、これを御覧ぜよ」といひて、衣の前をかき上げて見すれば、まことにまめやかなのはなくて、ひげばかりあり。「こは、不思議のことかな」と見給ふほどに、下に下がりたる袋の、殊の外に覚えて、「人やある」と呼び給えば、侍二三人出で来たり。中納言、「その法師引き張れ」とのたまへば、聖まのしをして、阿弥陀仏申して、「とくとくいかにもし給へ」といひて、あはれげなる顔、気色をして、足をうちひろげておろねぶりたるを、中納言、「足を引き広げよ」とのたまへば、二三人寄りて引き広げつ。さて小侍の十二三ばかりなるがあるを召し出でて、「あの法師の股の上を、手を広げて上げ下ろしさすれ」とのたまへば、そのままに、ふくらかなる手して、上げ下ろしさする。とばかりある程に、この聖まのしをして、「今はさておはせ」といひけるを、中納言、「よげになりにたり。たださすれ。それさすれ」とありければ、聖、「さま悪しく候。今はさて」といふを、あやにくにさすり伏せける程に、毛の中より松茸の大きやかなる物のふらふらと出で来て、腹にすはすはと打ちつけたり。中納言を始めて、そこら集いたる者ども諸声に笑ふ。聖も手を打ちて伏し転び笑ひけり。はやうまめやかものを下の袋へひねり入れて、続飯にて毛を取りつけて、さりげなくして、人を謀りて物を乞はんとしたりへるなり。狂惑の法師にてありける。(超訳)中納言師時のところに「自分は修行をして煩悩を払った聖人である」という坊さんがやってきた。中納言が、それはどういうことか?と聞くと、その坊さんは服をめくって股を見せた。中納言は、袋と毛が尋常じゃないと思って、周りのものに坊さんを押さえさせ、若い子どもに、股の間をさするように命じた。坊さんは、「そのくらいで、勘弁してください。」といったが、中納言は、「気持ちよくなってきたようだ、ほらさすれ、もっとさすれ。」と、意地悪く命じた。しばらくすると「ぱつーん」という音がして、毛の中から松茸のようなものがとび出してきて、腹に当たって音がした。その場にいた人たちは、みな大笑い。聖人と偽ったその坊さんも、わらい転げた。実は、本物を米粒のノリで貼り付けて、人をだまして物を貰おうという気ち違いじみた坊さんだったという話。

「たまくきけんち」という話でした。家庭教師をしていた頃、中学生にこの話を紹介したら、もう大変。興味を持って、煩悩って何?とか聞いてきました。腹に打ち付ける音が、原文では「すはすは」となっていますが、昔は濁点や破裂音は区別して書かれなかったから、「スパスパ」なのかもしれないねなんて笑いながら話しました。それ以後は「ピターン」話というなまえで、中学生の子は何度も読んでくれとせがみました。おなかにあたる音が、中学生だと「ピターン」だったのでしょうか。このほかにも古典文学には楽しい話がたくさんです。興味のある方は、手に取って読んでみてください。「栄華物語」は、藤原道長の話で、まだ、位が低かったころに馬鹿にされて、「あの方の影すら踏むことができないだろうね。」と言われたのに腹を立てて「影じゃなくて面をふんでやる」といったとか。この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることもなしと思へばで有名な望月の歌のシーンも掲載されていたと思います。(大鏡だったかな?)

小学館 日本古典文学全集 枕草子 小学館 日本古典文学全集 宇治拾遺物語 を参考にしました。

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