心に残る人たち【この人たちのおかげで今の自分があります】
今まで60年以上生きてきて、心に残る人が何人か存在します。もう故人である方もいます。今はどうしているかもわからない方などいろいろですが、忘れないうちに記録しておこうと思います。
解体屋の小林さん
小林さんは、解体屋さんでした。毎朝通勤時に、車で通る道にある解体屋さん。帰りにも手を挙げて挨拶してくれました。その方は、偶然にも私が担任した子のお父さんでした。そのことを知ったのはしばらくしてからです。子どもからクルマ好きだということを聞いていたのでしょう。よく帰りには立ち話もしました。いつも油で汚れたつなぎ姿。手も真っ黒でしたが、笑顔が印象的でした。こんなにも楽しそうに笑えるって、いいなあと思いました。もっと話はしたかったのですが、2年前に亡くなっていました。というのを知ったのも偶然です。長野に引っ越すために持っている車を4台処分する必要がありました。ミニワン・VWタイプ1・MGB・MGFです。市内の解体屋さんを探したところ偶然に電話した先がその小林解体でした。電話に出たのは、教え子でした。3年生の頃は、忘れものばかりで、だらしなかったけれども、立派に成長していました。お兄さんと一緒に親父さんの跡を継いだようです。ちょっと頼もしくもあり、うれしくもありました。VWビートルは手放すかどうかずっと悩んだクルマでした。思い出が詰まっていたから。娘と息子と3人で、修理が完了したビートルを引き取りに行ったからです。息子は小学生の低学年。娘はまだ保育所に通っていたころの話です。その解体屋の家は、なんと私の母が住んでいるアパートの隣の家でした。偶然が重なるものなんですね。MGFは、母のアパートの所に置きっぱなしでしたから引き取るのも話が早い。妹に貸したまま車検が切れていたんです。なくなった解体屋の小林さんとはもっと話がしたかったです。馬が合うそんな人は今までの人生の中でも数人。ご冥福を祈ります。
マサミおばさん
マサミおばさんは、母のお姉さんです。母は兄弟7人のちょうど真ん中。マサミおばさんは、長女でした。だから年が6つも7つも離れているわけです。家が近くだったので、よく遊びに行きました。近くといっても、駅が二つ離れていますので、歩いていくのはなかなか大変です。我が家にはクルマもなかったし自転車もありませんでしたから、おばさんの家に行くには、いつも電車です。たまにバスの時もありましたが、、、。その当時は都内に都電が結構走っていましたが、おばさんの家の近くにはいきませんでした。おばさんの家の夕食はたいていコロッケ。私は人の家では物が食べられなかったので、がんばってコロッケで一膳食べ終わるのがやっと。おばさんの家の子は何杯もお代わりをしていました。おばさんはやはり笑顔が素敵な人で、ちょっとでぶっちょで包容力がある人でした。いつも割烹着を着ていました。大人の中で、この人が最も信用できる人でした。マサミおばさんは何年か前に亡くなりました。90歳を超えて、長生きしたそうです。おばさんのあたたかさやにおいはいまだに覚えています。目が悪いのか、何でもない時に涙を流していました。「どうしたの?」と尋ねると、お前がいい子だから泣いてるんだよ。と冗談を言っていました。涙腺が壊れていたんだね。自分もこの頃、涙がにじんでくることがありちょっと複雑です。
スキーツアーをご一緒したKさん
名前ははっきりと思い出せません。スキーツアーで行った友だちの友だちでした。バスの中でちょうど隣り合わせになり、意気投合しました。それ以来、もう40年ほどお会いしていません。この人も馬が合う人でした。バスの中で一晩中バカ話をして、思いきり楽しい時間を過ごしました。彼も記憶の中で楽しかったことを覚えてくれたらうれしいなと思います。
一緒の学校に務めた真由美さん
真由美さんは、先生でしたが臨時採用でした。一緒に何年か仕事をした後は、福島に家を買って離れてしまいました。ちょうどスキーに行ったり、クロスカントリースキーの体験をしたりする機会があり、また再開しました。その時に、先生の仕事を勧めたところ、本人も奮起して採用試験に合格しました。今は東京の小学校に努めていると思いますが、もうかれこれ10年くらいお会いしていません。一度一般企業に就職したことや、田舎の学校で経験を積んだことは、自分の糧になっていると思います。きっといい先生になっていることでしょう。もしかすると、教頭先生?になっているかもしれませんね。
真由美さんというのは私の元の奥さんの名前でもありました。
3年生の時の担任の鈴木先生
先生はもう覚えていないかもしれません。私は3年生の11月に転校してしまったので、先生とは8か月しか一緒にいませんでしたから。先生は、やさしくて、めったに叱りませんでした。いつもニコニコしていたので、ホッとしながら生活ができました。転校した時に、寄せ書きを下さいました。クラスのみんなの一言メッセージがあって、最後に先生の言葉。「いつまでも げんきで しあわせに」これを励みに頑張ってきましたよ。私は元気です。そして幸せです。でも先生は存命ならもう80歳は越えていらっしゃいますね。私も大人になって先生になりましたよ。ありがとうございました。「いつまでも げんきで しあわせに くらします」
養護学校の柳沢校長先生
私が先生に就職する年は、県内で小学校の採用が100人というような氷河期でした。ですから、ほとんどの人が採用されません。友だちも一般企業へ流れていきました。私も仕方なく採用の通知を待っていたら、急に連絡がありました。その時にはちょうど京都に旅行に行っていました。もしその日に家に電話をしていなかったら今の自分はありません。昔はケータイはありませんでしたから、、、。急遽、翌日一番の新幹線で帰り、面接に行きました。タクシーの中で着替えをしたほどです。運よく時間には間に合いました。その時の校長が、柳沢先生。穏やかで、わたしのことをずいぶんかってくれました。音楽が好きな校長は、全校朝会の時にいきなり歌い始める人でした。歌はいまいちでしたが、子どもたちを一瞬のうちに引き付ける技は、天下一品。柳沢先生は、若いころラグビーをやっていたと聞きました。その所の共通点もあって、自分をいい評価してくれたのだと思います。御存命なら90を越えます。お会い出来たらお礼を言いたいです。※京都には彼女と旅行に行っていたのでした。面接が終わったらすぐに着替えて京都に引き返しました。結局その彼女とは縁がなかったのですが、、、。務めた学校に、ちょうど一年前に採用された同級生がいました。よく一緒に遊んだ仲間のひとりでした。運命の出会い?とも思いました。
皆さんのおかげで、今の自分がある。自分も恩返しをしないとね。こちらも参考になれば、、、。これまで出会ったすごい人たち