自然と眼から涙が!【加齢によって涙腺に支障?】
私の持病は、いくつかあります。「痛風」「高血圧」「肩関節の脱臼」どれも、もう長い付き合いになります。痛風は、20年以上。少なくとも20回の発作を経験しているでしょう。この痛さは、歯の痛みをはるかに超えます。脱臼した時よりも、骨折よりも痛い。「一病息災」という言葉がありますが、いっしょうこれらとつきあっていかなくてはなりません。脱臼は、ラグビーの練習試合の時に始めて体験。接骨院に行って痛い所をぐいぐい引っ張られて、やっとはまりました。その後は力が入らず、しばらくは動かせませんでした。これが習慣化してしまって、すぐに外れてすぐに入る「亜脱臼」を繰り返しました。泳いでいても肩が外れたりしたので、20歳の時に手術を決意。それ以来、もう40年以上は脱臼していません。医師からは、スキー・スケート・柔道・鉄棒などは禁止されました。肩にボルトが入っているので、今度外れたらなおせないと言われました。烏口突起という骨を削り取って、そこについている筋肉【スジ】ごと他の場所にボルト止めしてあるそうです。ですから、左腕の可動域は半分くらいになっているのが現状です。バイオリンを弾くような左手のポジションは不可能です。まあバイオリンなんか弾かないですけどね。憧れて、お茶の水の下倉楽器で買ったことがありましたけど、、、。
涙腺の故障?
今年になって、気が付きましたが、知らないうちに涙が出ていることがあります。吹雪の時などに涙が出ていることはありますが、何でもない時に滲んできて。はじめは何だろうと思いましたが、はたと思い当たったことがありました。それは、私のおばさんのこと。私にはおばが何人かいたそうですが、最もお世話になったのは「青砥のおばさん」でした。東京葛飾の青砥という所に住んでいたので「青砥のおばあちゃん」私は京成線の「四つ木」が最寄り駅でしたので、電車に乗れば二駅の距離に住む親戚でした。妹が生まれるときに預けられたのも、「青砥のおばあちゃん」のうちでした。
そのおばあちゃんの家に行くと、いつもおばあちゃんは涙をためていました。「何で泣いてるの?」と私が訪ねると、おばあちゃんは決まってこう答えました。「お前がかわいいから涙がでるんだよ。」そのころは、不思議でしたが、病気だったんですね。きっと50歳台だったと思いますが、子どもの自分にはおばあちゃんに見えました。まさか自分も年を重ねて同じようになるとは夢にも思わなかった。「青砥のおばあちゃん」は、7人兄弟姉妹の一番上。私の母は、4番目なので10歳くらいは年下でしょう。きっと面倒を見てもらったのでしょうね。年齢から考えると、大正生まれではないかと思われます。何年か前に九十何歳かで亡くなったそうです。ちなみに母も90歳、いまだ健在です。
総合的な学習の時間のゲストティーチャーとして、おばあちゃんに電話で登場してもらったこともありました。「今と昔、どっちがいいの?」というテーマで取り組む学習でしたが、私が昔の方が良かったというのに対して、「青砥のおばあちゃん」は、今の方が絶対いいという意見でした。戦争もないし、食べるものもいっぱいある。それに今は、便利で暮らしやすい。ということでした。そこから小学生たちには、いろいろな生活の分野で昔の生活を調べるという課題を持たせるのが狙いでした。衣食住など、いろいろなことについて調べたり、お年寄りにインタビューしたりしてまとめます。「青砥のおばあちゃん」を思い出すと、何だか胸が締め付けられる感じがします。おばあちゃんには娘が3人と息子がひとりいました。家にお邪魔すると、決まって夕食はコロッケでした。息子がコロッケが大好物だったようで。その息子も、私より7~8歳くらい上なので、もう完全におじいちゃんですね。娘の中で一番下の妹は、私が憧れたお姉ちゃんでした。そのお姉ちゃんが中学生くらいの時に、電車やバスを乗り継いで私の家に遊びに来てくれたことがありました。私には上の兄弟がいなかったので、一緒に絵をかいたり、話をしたりするのがとても楽しく、ふわふわした気分だったのを覚えています。今ではおばあちゃんですね。自分の目に涙がたまってくるたびに、こんなことを思い出します。おばあちゃんの名前は「マサミ」といいました。昔の人にしては、ハイカラな名前でしたね。そういえばおばあちゃんは、内職をしていました。縫い合わされた足袋をひっくり返していく内職だったような、、、。試しにやらせてもらったけど、力が足りなくてうまくできなかった。おばあちゃんの家の台所には、冷蔵庫がありました。木でできた冷蔵庫で、頑丈な取っ手が付いていた。中には大きな氷が入っていて、、、。台所はいつも漬物の匂いがしました。ぬか床があって、台所は一段低くなっていた。暗くてじめじめした場所でした。
おばあちゃんの旦那さんはいつも険しい顔をしていました。夏はランニングを着て、相撲や野球を見ていました。職人さんだったようで、とっつきにくい人でした。その人の笑った顔を思い出せません。
おばあちゃんちには、電車やバスで行くこともありましたが、ゆっくり歩いて行ったこともありました。その途中に、当時は珍しかった「スーパーマーケット」があって、中に入った時には、夢のような世界でした。広くて、食べ物がたくさん並んでいて、明るい。子どもながらに、素敵だなあと感じました。その当時はビニール袋はないので、何かを買うと紙袋に入れてくれていました。ちょっと外国のシーンのようです。確かそのスーパーは「赤札堂」だったと思いますが定かではありません。「セイフウチェーン」なんていう店もあったように記憶していますが、わかりません。もう50年以上も前の話。そのころ我が家には、炊飯器も冷蔵庫も洗濯機もクルマも自転車も無かった。かろうじて白黒のテレビはあったけれども、視聴禁止にされ、隠されていました。住むところは六畳一間のアパート。まだ戦後間もないころの話。